美しい日

小学校教員になりました。新任です。上越教育大学西川研究室で『学び合い』に出会う。

民主的

12月にある学校行事で、学級の出店を何にするかという話し合いをしました。話し合いは子どもたちに任せて私は様子を見ていました。

 

私は特に何も言いませんでしたが、多数決ではなく、みっちり話し合って全員の納得を得ることを大事にしていました。少数意見を尊重し、うーんという顔をしている人に意見を聞いたり、納得するまで話そうよ、と言ったり。話を否定したり遮ったりする人には「今〇〇さんが話してるから待ってね」なんて言えたり。

折衷案を考えて納得のいく議論になったようでした。

(教室で宝探しをやろうという流れの中、劇をしたいと言う少数意見を取り入れました。宝探しをするストーリーをつくり、その劇の中でルール説明をする動画を撮って、来た人の待ち時間に見てもらうことになりました。待ち時間の活用にもなります。ディズニーやUSJのアトラクションの待ち時間に見る動画みたいなイメージ?で面白そう。)

 

前提として自分の意見を言っても大丈夫だと思える集団であることが必要です。そう言う集団になりつつあるのかなと成長を感じました。

 

全員の納得を得ることを諦めない、これが民主主義なのではないかと思いました。

知らぬ間に民主的なクラスになりつつある…子どもたちは本当に面白い存在です。

 

マジ

うちのクラスではサッカーがブームのようです。

 

今週、ある男子にサッカーに誘われましたが乗り気じゃなかったんです。それでちょっと渋っていたら、「教えたいから来て!」と言うし、女の子たちにも頑張って声をかけて誘っているのが面白いな、すごいなと思って行ってみた。

 

来たからには本気で闘いました。小4から見ると思ったより動けていたようで、「先生、サッカーやってたの?」「先生俺より上手いかも」なんて…いやいや、DSのゲーム、超次元サッカーイナズマイレブンしかやってません。

 

高校の卒アルに体育祭でサッカーをやっている場面で、私がぼーっとしてるところが写ってしまってます。

本気でやったことがなかったんです。

体育祭のときだけ団結しようとしてるなんて思って冷めていて、雑に参加していたんだなって今だから思います。

一部の人たちだけがなんかそれっぽいことしたいんだとばかり思っていて、いいクラスになんてなれないと他責思考だった。だから生きづらいし、部活と受験しか思い出せないような高校生活になった。

クラスや担任のせいではなく、自分のせいだと今ならわかります。面白くしよう、歩み寄ろうとしなかった。

 

普段から人に歩み寄らなかったせいで、すごく損をしていたと今気づいてももう高校生には戻れない。クラスの仲間と自分自身に対して今更、すごく申し訳ない気持ちになった。

 

 

私は、クラスの仲間を一生懸命誘って、本気で楽しもうとする人たちに心を打たれて参加してみた。本気でやっている人を見て、本気になれた自分に気づくことができたのです。

 

本気の気持ちを受け取れるかどうか、それって普段の関係性がどれだけできているかではないでしょうか。どれだけ歩み寄ろうとしているかではないでしょうか。

 

残りの人生は、私は人の頑張りたい気持ち、一生懸命な気持ちをたくさん受け取りたい。だから毎日人と誠実に大事に関わろう。そう改めて思わせてくれたのは子どもたちでした。

 

たんたんめん

体育で大縄とびをしています。

 

「先生、さっき〇〇くんがはじめてとべたんだよ!嬉しかった!」

「〇〇ちゃんはね縄が怖くて飛べなかったけど、縄を回すのがすごく上手だったよ」

「さっき失敗したとき、みんなが大丈夫だよって言ってくれて、安心したの」

 

飛べた本人より周りが喜ぶ。飛べなくても別の役割を見出す。安心感がある。大縄を使って素敵な活動にしていました。

 

はじめは、飛べない子にとっては大縄はひどい種目だよなぁなあんて思っていたのです。

小学生のころ、まっすぐ走るのは早かったので親からフォレスト・ガンプと言われていた私ですが、他の運動はさっぱりなので、大縄ではそれはそれは嫌な思い出があります。引っかかった時の「あー」みたいな空気は耐え難いものです。

 

そんな経験があるので、私は楽しくやることがいかに大事かしか話していませんが、子どもたちは飛べるようになるためにリズムを作ったり(たん・たん・めん、ワン・ツー・スリーとか)、飛びやすい縄の真ん中に印をつけたり、いい空気にする声かけをしたり、工夫をしていました。

 

子どもたちは、飛べないならしょうがないよね。じゃなくて、どうしたら楽しく飛べるようになるかを考えてしました。

主に算数で型のある『』をしていますが、何も言わなくても他の教科でも勝手に『』なっているのを最近感じます。

 

新聞係の子に、「先生の後期の目標はなんですか?新聞にのせます」と言われたので、「みなさんの良いところをたくさん見つけて、それを伝えられることです。」と答えました。もっと遠くを見て、この先の人生を見て必要なことを、子どもたちの姿から伝えていきたいと思います。

 

越後にて

先週の土曜日に越後『学び合い』の会に参加しました。

上越教育大学を歩く、久々の仲間と会う、慣れたはずの講義室で話を聞く…それだけで思い出が走馬灯のように駆け巡りました。

 

越後のあと、友達の誕生日を祝うサプライズがありました。サプライズ成功!となって、さてさて帰りますか〜と、車でアイスを食べていたら、友達の最高に嬉しい話を聞かされました。サプライズ返しです。

 

嬉しい話を聞くと勝手に涙が出ました。顎が痛くなるくらい笑顔になりました。

 

友の幸せを喜び、涙を流せるなんて、私はなんて幸せ者でしょうか。

それだけのつながりを得たこと、そして今私が人の幸せを喜べるほど幸せであることを実感しました。

 

きっと私は大学院で得たつながりを死ぬまで大事に大事に想って生きていくんだろうなと、帰りで1人、夜のパーキングエリアで思いました。

 

子どもたちと過ごしながら、この子達も、いつか友達の幸せを想って泣く日が来るのかなとか、勝手に妄想をするのでした。

 

 

もう半年

先週の通知表を渡す時間の裏でいくつかのアンケートに答えてもらいました。

「『学び合い』の授業はこのクラスにとって良い影響があると思いますか?」

この問いに、23人中、22人が「いいと思う」に票を入れていました。

「1人も見捨てないことの大切さを知れたから」

「仲間になるために、全員がわかることを諦めないことは大切だから」

そう言った理由が多かったです。多くの人が必要性を感じて取り組んでいるようです。

 

一方、1人だけ「そう思わない」に入れていました。その理由は、「1人、2人をまだ見捨ててしまっていて、だれかを見捨ててしまう時間になってしまうから」でした。

これはなかなか鋭いと思いました。まだ見捨てている現状があると感じていて、そのせいで見捨てられている人が生まれているというのです。

 

では、やらないほうがいいのか。

それでも、「やらないほうがいいとは言えません。」と、言いました。

 

「見捨てられる人が生まれるなら、じゃあやるのやめようと私が言ってしまうと、「1人も見捨てないことはみなさんではできない」と言い切ってしまうことになる。1人も見捨てないを諦めることになってしまう。悲しい人を1人も作らないために、この1時間をどうしたら良いか考えてほしいのです。半年後、みなさんはどんな姿になっていたいですか。どんなクラスになっていたいですか。

たくさんの人がこの時間に必要性を感じています。けれど、まだまだ見捨ててると思ってる人がいます。その人の気持ちを受け止めてどうしますか。」

 

そんなふうに投げかけてみました。

精一杯取り組み、プリントだけでなく補助問題を使ったり、マグネットを確認したり、わからなくて泣いてしまった子に駆け寄ったりしていました。

 

後期初日はこんな感じでした。あと半年、もう半年です。私がしてやれることはこの子たちが「自分たちであればできる」と信じるものを、信じてあげることです。

 

 

 

貪欲に

オンライン 富山『学び合い』の会を紹介してもらい、参加させてもらいました!

 

『学び合い』の実践、働き方改革、『学び合い』のモチベーションをどう保つ?など様々なお話をのんびりできました。

(途中でわたしたちの師の登場もあり、なんと運がいい!ありがたや〜)

 

平日5日を走ってると金曜日には頭の中がごっちゃになっています。こうやって遠くにいてもお話しできる場を作ってくださったことに感謝したいです。

誰かとお話をするだけで気持ちの整理や、心にたまったものを少し外に出すことができて、落ち着くなぁとやっぱり思います。

 

自分からそういう場に行かないとなぁ〜とやっぱり痛感します。

昨日の上越『学び合い』の会に合わせ仕事を切り上げて帰らなかったことを後悔。もっとそういうチャンスに貪欲になろう。

 

来月の越後『学び合い』の会では、西川研OB初任者として分科会に参加させてもらいます。

初めてオフラインでの参加です。

今からたくさんの出会いがあることに期待を膨らまさています。

自分を許したい

時間外労働

 

9月も終わりを迎えそうです。教員になって半年が経とうとしています。

時間外労働が45時間を超えないようにとお達しが出ています。

先月までは40時間ほどに抑えられていましたが、今月は51時間になってしまいました。

出退勤の表を見ると、赤い文字で「規定より超えています。」みたいな表記がでてびっくりしました。

 

心当たりはあって、今月は研究授業や成績処理などがありました。遅く残って帰ると朝が辛くなるので、朝早く行く生活をしていました。

朝早く行きすぎて、ご近所の方に「こんな時間からいらっしゃってるんですね…ご苦労様です、大丈夫ですか?」と心配されてしまいました。

 

もしかすると、全国の先生よりは少ない方かもしれません。中学校や高校の先生と比べると部活もありません。

しかし、今は初任者への配慮で重い校務分掌もない中です。

 

とはいえ、時間外労働はできるだけしないほうが私にはいいと感じています。

残業をする先生を否定したいわけではありません。少ないからいい、多いからダメ、ではないです。要は、その労働環境で幸せだと感じられるかどうかだと思います。

 

たくさんの時間外労働をされてる先生には申し訳ないのですが、私はそれでも時間外労働をしんどく思ってしまいます。(理由はさまざまです。プライベートの時間を豊かにしたいとか、体力的にとか…)幸い、たくさん働くことを押し付けられたことはありませんし、むしろ早く帰ろうね、と言ってもらっています。

 

しかし、この先も時間外労働をする生活を続けていくとこの状況に慣れてしまうかもしれないと思うと怖いのです。

 

以前研修で、「マルトリートメント」の話を聞きました。マルトリートメントは、子どもに対しての不適切な関わりという意味だそうです。

そのお話の中で、どんなに不適切な環境にいても、それがつづくと不適切なのに普通だと思ってしまうのだそうです。

 

それと似ているような感じで、じぶんにとってよくない労働環境にいるのにそれが普通になってしまわないか心配なのです。

 

教師である自分が不適切と感じる環境にいるのに、無理をしてそれが適切だと思ってしまっていると、子どもにも不適切な環境でも頑張ることを押し付けてしまわないか不安を感じるのです。

 

他人への不寛容は、自分への不寛容から来るのだと、以前聞いたことがあります。

 

だから私は、他人を許すために、自分のことも許したいのです。けれどそれがなかなか難しいのは、なぜなのでしょうか。

 

私はこんなに頑張ってたよ。

こんなに我慢してるのに。

このくらいはやらなきゃダメだよ。

 

いつか、そんなふうに思ってしまわないか、人に言ってしまわないか不安なのに。