美しい日

小学校教員になりました。新任です。上越教育大学西川研究室で『学び合い』に出会う。

不思議な仕事

学校では子供同士でいいところを伝え合う活動に力を入れています。

これまでやってなかったのですが、帰りの会にいいところを発表する時間を設けることになりました。

 

「〇〇さんが〇〇してくれて嬉しかった」とか、そういう発表があるのかなーなんて思っていたのですが、出てくるのは次のようなものでした。

 

「クラスのみんなが朝の支度を時間通りに終えて、集中して朝学習をしていたのが嬉しかった」

「先生が言わなくても時間だから座ろうと声をかけてくれた人がいて、みんながそれに気づいて行動していたのがとても良かった」

「6時間目の学活が算数に急に変わって、自分は最初は残念に思ったのに、クラスのみんなが集中して取り組んでいてすごいと思った」

 

個人よりも、みんながどうだったかを伝えるのです。ぼんやりしてるわけでなく、具体的にみんながどうだったかを話しているので、10歳にして、IよりWEで考える人がいるのだと純粋に尊敬します。

 

私たちができることは、種をまくようなことで、いますぐ、目に見えてどうこうというわけではないのです。いつか、遠くを見て、願って子どもたちと過ごしていく。

 

けれども私たちは毎日子どもからたくさんのものをもらっている。だから、なぜだかやめられないのだよね。と、昨日母が言っていました。

 

たとえその日が9しんどくても、1嬉しいと明日も学校に来れてしまう、不思議な仕事です。

 

あたたかいきもち

6時間目、分数で学び合いでした。

 

黒板の前でネームプレートを見ている子がいます。

すかさずどこかへ飛んでいきますが、黒板の前に再び戻ってどこかへ行き、また戻って来ます。

 

「先生、すごいよね、みんなが教えてあげてるから俺の出番はないのかもしれない…いや…!」

そうつぶやいてまた飛んでいきます。

 

どうやら出番はあったようです。諦めかけてぐだぐだしていた集団の中に入って空気を変えました。

 

 

さて、他の場所ではうんうん唸っている男子2人。

懸命に教えているのは、1時間目に気持ちが落ち込んでしまい、泣いていた子です。

本当は、仲間が大好きだし、仲間のために何かしたい気持ちがある子です。周りの子が1日かけて輪の中に引き入れて、6時間目には誰かに教えるまで気持ちを立て直すことができました。

 

振り返りには、「自分も仲間のためにこうけんできる人になる」と書いてありました。周りのあたたかさに気づいてくれたのでしょうか。学び合いは、6時間目だけではなかったようです。

 

「今年初めて全員達成ができて、うれしい」と書いている子がとても多かったです。

その裏には一人一人の人を思う気持ちがあるのです…

子どもたちは今を生きています。今日の人を想う気持ちが、未来の幸せにつながっていることにいつか気づいてくれるといいです。

 

いい時ばかりではなく、ム!となるときも、疲れる時もあります。人間ですから…

 

でも、私をあたたかい気持ちにさせてくれたことが、また明日も学校に行こうと背中を押してくれるのです。

 

寿司職人なぎ

校外の初任研の修了式がありました。

そこで、寿司職人は一人前と言われるのに10年かかると言われていることを聞きました。

 

1年目…洗い場、出前、ホール業務
2〜3年目…飯炊き、貝類や小魚を捌く、玉子を焼く、まかないを担当
4〜6年目…カウンターに入り、巻物や軍艦を担当
7〜9年目…握りを担当
10年目…一人前になる

 

本当にこの通りなのかはわかりませんが、長い年月をかけ修行をするのだそうです。

 

対して初任者教員はどうか?寿司職人の修行にあてはめてみると、入店1日目でお客さんの前で寿司を握るようなものだと。

 

ネタの切り方が分からなくても、シャリが握れなくても、毎日お客さんが来る。

なのに、店の掃除や発注なんかもある。

 

こう考えると教員の修行は実にハードに思えます。

 

でも毎日やってたらだんだんと寿司の形になっていっているはずなんです。綺麗な寿司じゃなくて、若干ネタが乾いてたり、乗せ方がズレてたり、エビアボカドやカルフォルニアロールのような時もあったりするでしょうけれど。それでも笑顔でお寿司を出します。

 

そして笑顔でお客さんが帰ってくれることが一番です。

また来たいと思ってもらえたらすばらしい。

 

今はまだ100円寿司やさんかもしれません。でも私は100円寿司だって美味しいし、誰かと行くからまた行きます。

 

なので明日も休まず営業します。

 

なんの話でしたっけ。

まだまだ修行は続くと言うお話です。

 

再スタート

年が明けてしまいましたが、なかなか文を書けなかった日々が続いてきました。今年もよろしくお願いいたします。

 

実は、私1人で抱えられない出来事も多くあった日々でした。

 

私は大学院に入るまでは、誰かを頼るということができない人間でした。

大学院では、「助けて」と言ってもいい環境に身を置かせてもらったことで、自分から声を出していかなければいけないと学びました。

加えて、普段誠実に過ごしていなければ助けてもらうことはできないということも身に染みました。

 

そのことが今になって本当に大切な学びだったとわかります。

 

パートナーや家族に相談したり、先輩とご飯に行ってお話を聞いてもらったりしました。学校ではたくさんの先生に助けていただきました。

たくさんの人から、「一生懸命なの知ってるよ、大丈夫だよ」と、そんなふうに見て、言っていただけるなんて。

 

手を差し伸べてもらえ、温かい言葉をかけてもらえる、それだけで十分に幸せであるということを日々胸に留めて、明日からも歩んでいきます。

想いを汲める人に

今日はいろいろあり、1時間目を自習にしなければならず、指導教諭の先生が教室を見てくださりました。

 

いろいろが終わり、教室で静かに勉強してるのかなと思って戻ったら、なんと風景がまるで学び合いの時のようになっていました。メンバーを見ても生活班ではなく、なんならいつもより、お?面白い。と思うようなメンツでやっていました。

 

子どもたちが友達とやりたいと言ってきたんだそうです。

指導教諭の先生はそれを許してくださったのです。

 

子どもたちに任せたけれど、熱心に学習をしていたと話してくださいました。

自習を受け持ってくださっただけでなく、子どもたちの意思や私の想いを汲んでくださったことがほんとうにありがたく、感謝しなければなりません。

 

側から見たらもしかしてわがまま初任者じゃないかと思うのですが…。指導してくださることに加えて、時に私の想いに寄り添い、そっと見守ってくださるお心遣いにも感謝をしたいです。

 

私も相手の想いを汲める人間でありたいなと思います。

何を言って何を言わないかを考えられる知性を磨かなければ!

長い目で見るのだ

新潟市のいじめ未然防止フォーラムに参加しました。

 

「そんなつもりじゃなかった」

「遊びのつもりだった」

「あいつがわるいから仕方がない」

「たいしたことじゃない」

 

いじめの7割ほどは、これらのシンキング・エラーというものによって引き起こされるのだそうです。

誤った認知でいじめを正当化してしまう、恐ろしいことです。

子供だけでなく、教員でも、「あの子はそうされても仕方がない」というシンキングエラーを引き起こす可能性もあります。

 

新潟市には、道徳科や学級活動で取り組む「いじめ未然防止に向けた教育プログラム」というのがあります。

それらの実践を知りましたが、やはり最終的には私たち教員と子供たちが「長期的に物事を考えられること」が要ではないかと思いました。

 

例えば、人を無視するとどうなるか。

無視の対象になった人はそれはそれは悪いことをし、された方は怒っているとして。

だから無視してもいい、なんなら無視でもしてわからせたほうがいいか。

はたまた、無視はやりすぎか。

 

そのどちらかを聞くと、子どもの8割くらいは、「嫌なことをされたなら無視しても仕方ない」と答えるのだそうです。それは一時的な怒りに任せた短期的な感情です。

 

けれど、無視を続けるとどうなるかを長期的に考えると、集団として嫌な気持ちが続きます。いいことがありません。次に無視されるのは自分かもとすら思います。

 

どんな理由があっても人をいじめてはならないのは、その人の人生に影響がある、それもあるけれど、集団にとっての得がありません。

それは長期的に考えないとわからないことではないでしょうか。

 

しかし、学校や教員に余裕がないと、今その場をどうにかするのにいっぱいいっぱいになります。私たちが切羽詰まっていて、何かに追われ続けていたら、長期的になんて考えられないでしょう。

 

やっぱり私たち教員の幸せが子どもの幸せにつながるのは間違いなさそうです。

 

グループディスカッションで教員の余裕について話があがりました。ベテランの先生に、「若い先生ほど、余裕ないんじゃない?どうしてるの?」と聞かれたので、「他の先生とお話しすると、肯定してもらえたり、アドバイスをもらえます。それで、自分を許して安心することにしています」

 

というと、「いい職場だね〜」といってもらえました。ほんとにそう思います。

 

帰る時に、一緒に来た教頭先生に「期待してるよ」と、言ってもらいました。

 

頑張ってではなく、期待してるという言葉。私たちの師の顔が浮かびました。

「いじめをなくせると本気で思って行動しなさい」というメッセージだと勝手に受け取らせてもらいました。

期待してるよの返事は言わずもがなです。

 

こどもはかわいい

「来年も凪先生が担任がいい」

「もっと凪先生の授業を受けたい」

そんなことを言ってくれる人たちがいます。

先日、午後からの出張が延期になった時も、「午後も凪先生がいてくれて嬉しい」なんて言ってくれました。

 

私も人間なので、もちろん嬉しい気持ちになります。けれど、どこかひっかかるのは「子供との距離間は適切なのか、介入しすぎているのではないか」という心配です。私の存在がなるべくデカすぎないでほしいのです。

先日校長先生に、どんな先生になりたいですか?と聞かれた時、「私が介入せずとも自走するような学級経営のできる先生です」みたいなことを言いました。が、それはかなり高いレベルの目標かもしれません。

 

なので、休み時間も忘れ、仲間と集って勝手に学校行事に向けた仕事を進めてたり、授業が気づいたら『学び合い』になってたりすると少し安心します。

 

担任する子どもたちが私に良い感情を抱いてくれることは、私たちが西川先生が一線を退くことがどこか寂しい気持ちになること、西川先生が好きなことと、同じかもしれません。

西川先生の講義は何度でも聞きたいと思います。西川研究室に居たいと思えます。

西川先生のパンツの色を聞いた人さえいます。

 

けれど、私たちは西川先生が好きだけど、遊びには誘わないし、西川先生が介入せずとも研究室が回っていました。

 

学級が西川研究室みたいになったなら、きっと私はその様子を見て教卓でニコニコしてるのです。妄想です。

 

子どもは麻薬なので、もしかして幻覚を見ているんじゃないかと時折不安になります。その不安を忘れた時に大事なものを失うような気がします。

こどもはかわいい。だからこそ頭を冷やさなければいけないのでしょう。