美しい日

小学校教員になりました。新任です。上越教育大学西川研究室で『学び合い』に出会う。

大混乱の頭をつらつらと

頭大混乱なので、つらつらと書いてます。

 

子どもたちと権利について学習しました。

権利って言ったらどんなイメージかを聞いてみると二極化しました。

「偉い人が持ってる」「みんなが持ってる」

 

だけど、「権利とは、みんなが自由に生きるために持ってるものだけど、大人や、偉い立場の人の方が権利がある」とも言っていました。

 

子どもたちは、「大人が上で子どもが下」と思っているようでした。

実際、そうなってしまっているのかも知れません。

 

学校では、先生に言われたことを守ったり指導されたりルールに従ったりする場面があります。

大人は従わせたいわけではないのに、結局子どもたちが従わされている、やさられている感があると、無意識で「大人が上で子供が下」と感じるのも頷けるなと思います。

 

その実態を聞いて、子どもは子どもという存在である以上に、1人の人間として接することができているのかと自分を振り返りました。

 

今クラスでは、遮って発言したり、発言の垂れ流しがみられるので、ご指導を受け「言いたいことがある時は手を挙げる」をやってみています。なるほどー、と思って 「みんなが話せるように、そしてみんなが聞いてもらえるように」と説明してこのルールを導入しました。

みてくれている先生からは、好評です。

 

しかし、なんか形式的だな思ったり、一方で他の子どもの発言権が守られてるあと思ったり。だけど、私がなんだかまだしっくりきてないっていうのもあって、うまく行ってる気がしません。このルールは「場面に応じて発言する」能力の中の、下位2割への対応に感じ、そして私が一方的にやり始めてしまったことだからです。

 

だいたい、子供と違って、私は私のタイミングで話し始めるのに。いや、それが仕事でしょうと言われたらそうです。でも、言葉にできないけどなんだかしっくりきてないのです。

その辺も見透かされているのか、「じゃあ凪先生も手をあげてから話してよ」と今日言われました。お互い窮屈するくらいならこの制度をやめたい。そんな考えがよぎりました。

きっと、ちゃんと聞いてくれる人や適切に発言する場面を褒めればよかっただけなのです。しかし、指導を受け、やってみて得たものもあります。

 

しっくりきてないのにやるもんじゃないという反省もありつつ、どうしたら教師と子どもという関係の中でも人として同等にいられるのかを考えました。

 

だんだんと拗らせてきて、褒めるのだって上から目線に感じたり、「価値づけってなに、そんなに偉いんか私は」と思ったり。頭の中は大混乱、大乱闘です。

 

葛藤の連続です。

ただこの疑問を見ないふりすると、いつしか従わせる教師になってしまいそうで、怖いのです。

 

こんな時は誰かと話さないといけませんね。三連休と、三連休明けは対話ができるように過ごしたいと思います。